2013年2月7日木曜日

希薄な罪悪感

 妻以外に愛する異性がいて、その人と性交渉を伴う交際している。本気で愛してはいるが、彼女も私もそれぞれの家庭を壊す気はない。そんな現状を負担に思っているか、私は時々自問してみる。

 正直なところ、自分が妻を裏切っているという意識はあまりない。不倫以外の点については、良きパートナーである自負があるから。酒やギャンブルに溺れる訳ではないし、犯罪をしているのでもない。

 また、私は出来るだけ都合をつけて、妻を含めた家族と過ごす時間を持つようにしている。彼女とのチャットやデートの約束は優先するが、その埋め合わせは別の休日などでするように心掛けている。

 私の気持ちを理解してくれないと感じる妻の言葉にも、以前ならカッとしていたところだが、反感そのものを抱くことがなくなった。我慢しているというより、この人にはわかってもらう必要はないという感じだ。

 隠している秘密があることに、一定の息苦しさはある。但し、結婚してから不倫以外のすべてを妻に話してきた訳でもないので、それほどの苦痛や負担ではない。

 この状況は、妻も選んだ状況なのだと感じている。妻が満足できる夫婦関係では、私は満足できなかった。その感じ方の違いが決定的だとわかった時、私は精神のバランサーを婚外に求めたのだから。

2012年9月14日金曜日

異性愛とセックス

 不倫相手である彼女に、私は何を求めているのか。それは、自分の愛する者に愛される喜びだ。セックスの喜びも少なからずあるが、それはあくまで二義的なものだという気がする。

 肉親や家族を愛し、彼らに愛されること。そうした愛情については、私はこれまでの人生で恵まれていた方だと思う。しかし、それと異性愛とは違うものだ。

 私は妻を異性として愛そうとしたし、現在の恋人に出会うまでは努力を続けてきた。妻は私を家族として愛してくれているが、異性としては見てくれない。もちろん、私にも落ち度があるのかもしれないが。

 セックスがしたいという理由で、不倫相手を探した訳じゃない。私自身のセレンディピティ(探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能)が発揮された結果として、彼女と出会い恋人になったのだ。

 逆に、セックスの相手を探していたら、彼女のような素晴らしい女性とはめぐり合えなかっただろうし、たとえ会えても見向きされなったに違いない。

 セックスは互いの愛を深め、喜びを謳歌する手段の一つであって、目的ではない。しかし、愛し合う相手とのセックスは余りにも快楽に満ちていて、そのに溺れているという自覚はある。

2012年8月17日金曜日

セックスの相性

 セックスの相性なんてものは、所詮は突起と窪みの擦れ具合に過ぎないなどという人がいる。しかし、本気でそう思っているとしたら、セックスのフィジカルな面しか見ていないように感じる。

 男性器のサイズにこだわるのは、こういう人なのかとも思う。例えば性器にシリコンボールを埋め込むこと自体が悪いとは思わないが、心の相性を良くする努力をないがしろにしていては、本末転倒だと思う。

 性のテクニックも重要だが、女性が何より嬉しいのは上手なセックスをしてくれるという以上に、自分を悦ばせるために磨いた技術を使って、一生懸命がんばってくれる姿に対してではないだろうか。

 好きな相手と肌を合わせる時は、キスしたり指で触れたりする前から濡れてくるのが女性の体。精神のあり方が肉体に影響を与え、それがどれほど感じるか、アクメに達することが出来るかが決まるのだろう。

 加えて、性に対する考え方や性的嗜好の一致も決して無視できない。男女どちらかがセックスに罪悪感や嫌悪感を持っていると、他方が努力してもなかなか上手くいかない。

 また、「自分の認めるセックスだけが正しい」という固定概念に囚われすぎていると、否定された側は深く傷つくものだ。中には、自分が経験していない性行為を、すべて変態のひと言で切り捨てる人もいる。

 最初から嗜好が近ければそれに越したことはないが、違っている部分を理解しあい、徐々に歩み寄ることができるか。そこまでを含めたものが「セックスの相性」だと、私は経験からそう感じる。