2012年9月14日金曜日

異性愛とセックス

 不倫相手である彼女に、私は何を求めているのか。それは、自分の愛する者に愛される喜びだ。セックスの喜びも少なからずあるが、それはあくまで二義的なものだという気がする。

 肉親や家族を愛し、彼らに愛されること。そうした愛情については、私はこれまでの人生で恵まれていた方だと思う。しかし、それと異性愛とは違うものだ。

 私は妻を異性として愛そうとしたし、現在の恋人に出会うまでは努力を続けてきた。妻は私を家族として愛してくれているが、異性としては見てくれない。もちろん、私にも落ち度があるのかもしれないが。

 セックスがしたいという理由で、不倫相手を探した訳じゃない。私自身のセレンディピティ(探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能)が発揮された結果として、彼女と出会い恋人になったのだ。

 逆に、セックスの相手を探していたら、彼女のような素晴らしい女性とはめぐり合えなかっただろうし、たとえ会えても見向きされなったに違いない。

 セックスは互いの愛を深め、喜びを謳歌する手段の一つであって、目的ではない。しかし、愛し合う相手とのセックスは余りにも快楽に満ちていて、そのに溺れているという自覚はある。

2012年8月17日金曜日

セックスの相性

 セックスの相性なんてものは、所詮は突起と窪みの擦れ具合に過ぎないなどという人がいる。しかし、本気でそう思っているとしたら、セックスのフィジカルな面しか見ていないように感じる。

 男性器のサイズにこだわるのは、こういう人なのかとも思う。例えば性器にシリコンボールを埋め込むこと自体が悪いとは思わないが、心の相性を良くする努力をないがしろにしていては、本末転倒だと思う。

 性のテクニックも重要だが、女性が何より嬉しいのは上手なセックスをしてくれるという以上に、自分を悦ばせるために磨いた技術を使って、一生懸命がんばってくれる姿に対してではないだろうか。

 好きな相手と肌を合わせる時は、キスしたり指で触れたりする前から濡れてくるのが女性の体。精神のあり方が肉体に影響を与え、それがどれほど感じるか、アクメに達することが出来るかが決まるのだろう。

 加えて、性に対する考え方や性的嗜好の一致も決して無視できない。男女どちらかがセックスに罪悪感や嫌悪感を持っていると、他方が努力してもなかなか上手くいかない。

 また、「自分の認めるセックスだけが正しい」という固定概念に囚われすぎていると、否定された側は深く傷つくものだ。中には、自分が経験していない性行為を、すべて変態のひと言で切り捨てる人もいる。

 最初から嗜好が近ければそれに越したことはないが、違っている部分を理解しあい、徐々に歩み寄ることができるか。そこまでを含めたものが「セックスの相性」だと、私は経験からそう感じる。

2012年8月3日金曜日

家庭人と夫婦人

 家庭人という言葉があった筈だと思って、辞書で調べてみたけど見当たらない。goo辞書にも、Wikipediaにもない。大抵は「良き」が枕詞になるようで、家庭を大切にする常識人といったほどの意味らしい。

 「社会人に対する家庭人」という使われ方もするようだ。能力や業績は社会的に認められているが、家庭をないがしろにしているため、家に帰っても居場所がないというケースは、社会人としてはOKだけど、家庭人としてはNGということになる。

 自分はどうかと考えると、定職はあり一定の稼ぎはあるものの、この先どうなるかはわからない。家庭では、子どもの相談にのったり、時に勉強を見たりと、割によき父だと思う。どちらも、そこそこの出来かなと思う。

 但し、実際は不倫をしている訳だから、その点だけでどちらも最低という見方もできる。発覚すれば、間違いなく社会人・家庭人とも失格扱いされるだろう。

 しかし、自分は良き父であるだけでなく、良き夫でもあるんじゃないかとも思っている。最近はセックスレスだが、夫婦仲は悪くないし、家事の手伝いも積極的にしているし、割によく会話する。喧嘩もほとんどない。

 夫婦人という言葉は聞いたことがないが、その概念を自作して当てはめてみても、さして悪い夫ではない気がする。恋愛とセックスについてだけが、妻とはかみ合わなくて、恋人とならとても上手くいく。

2012年7月24日火曜日

妻にとっての変態行為

 自分が感じているのが変態性欲だと思う時、それを妻に対してぶつけるのは難しい。軽蔑されたくないというより、軽蔑された状態で夫婦生活を続けることが耐えられないから。

 当たり前の話だが、夫婦はセックスをするだけの間柄ではない。むしろ、それ以外の要素の方が大きい。生活力やコミュニケーション能力、性格の相性などが共同生活の成否を決める。

 そして、人は夫婦関係を核として家庭を築く。子どもを儲ければ、父としての立場も生まれる。総体的に最もくつろげるのはなるほど自宅だが、我が家にいるからこそ気を張っている部分もある。

 その意味で、妻に変態だと思われることのダメージは大きい。どこまでがノーマルで、どこからがアブノーマルかは、時代や人や持って行き方によって違うだろうが、危険は冒せない。

 なので、ジャブを打ってみることになるが、軽く要求しただけで「あなたって変」という反応を示されると、この女性にそれを求めちゃいけないんだと感じてしまい、相手が拒んだ変態行為を封印することになる。

 私の場合、サディズム(特に、裸の女性を磔にする)と野外露出(自分がするのではなく、女性をさせる)の性的嗜好が強いという自覚が以前からあった。しかし、妻にそれをぶつけることは出来なかった。

2012年7月5日木曜日

妻がセックスを求めた夜

 妻が女を捨てたというのは、あるいは言い過ぎかもしれない。結婚当時から、妻はセックスに対して淡白なところがある女だった。

 子づくりのためのセックスは、排卵周期を考えながら数日間続けてしたことはあったが、新婚当時から営みは週1くらいで、それが二週に一度、月一になるのに数年しか掛からなかった。

 セックスすれば、一応は毎回達する。私がそうなるように頑張っているのもあるが、感度がそれほど悪い訳ではない。そして、夜の営み以外の夫婦仲は一貫していい。

 妻が自分から求めるということは、皆無に近い。十年以上前に、ある誤解から私の浮気を疑った妻が、深夜に抱いて欲しいと迫ってきたことが一度だけあった。

 現在の恋人と出会って深い仲になったのは、それから数年後のこと。他の女性に私を取られる危機感を抱くことで、一瞬だけ妻の仲に灯った火は、誤解が晴れるとすぐに消えてしまった。

2012年6月28日木曜日

女を捨てた妻

 不倫を通して妻以外の女性とセックスの味を知ってしまうと、妻に対して性欲を感じなくなるという既婚男性は少なくないらしい。かくいう私自身が、そうなのだが。

 女性の場合は性交に勃起を必要としないので、気分が乗らなくても夫を受け入れることはできる。濡れなくて痛いかもしれないが、唾液やローションという手もあるから。

 男性の場合、勃たなければセックスにならない。十代のやりたい盛りなら、よほど生理的に受付けない相手以外なら余裕でエレクトできたろうが、ある程度の年齢になるとそれも難しい。

 妻に対して、その気になれないのは何故か。理由はいくつかあるが、女としての自分をどれだけ磨き続けているか、その違いは大きい。その意識の薄さは、体型やおしゃれにはっきりと表れている。

 妻が特に太っているという訳ではないが、女として魅力的であることに無関心であるように見える。ウェストのくびれやアンダーへあの手入れに、少なくとも私に対しては女を捨てているのが感じ取れる。

2012年6月27日水曜日

家族化する伴侶

 セックスだけが、夫婦の絆という訳ではない。これは明らかだ。一緒に生活すること、余暇を過ごすこと、お互いを気遣うといった精神的な交流は、夫婦を続けていくには不可欠のものだ。

 これらの体験を夫婦(あるいは、子どもたちと一緒に)でともにして、生まれも育ちも違う他人だった二人が、家族になってゆく。

 既婚者にとって伴侶は守るべき家族である一方で、思慕や性欲の対象でもある。一緒に暮らす中で相手が家族になりきってしまうと、性欲の対象とはなりにくい。

 だが一方で、セックスに対する欲求は結婚したからといってなくなるものではない。対象を失った性欲の受け皿は、男性の場合はキャバレーや性風俗であり、場合によっては不倫ということになる。

 女性の場合、ホストクラブで散在できる人妻は決して多くはない。ネットでの出会い環境が整う中、不倫に性的な発散を求める既婚女性が多くなるのは、自然な流れだろう。

 もちろん、それは生活上の伴侶に対する裏切りだ。しかし、浮気は許さないといいながら、同時に夫婦のセックスを拒む妻や夫が少なからずいるのも、また事実であるらしい。

2012年6月19日火曜日

絆としてのセックス


 セックスが夫婦の絆として機能するのは、大別して二つのパターンが考えられる。

 一つは、愛し合う男女間での「性行為」としてのセックス。もう一つは、悪意や害意を持っていないことを知らせる意味での「スキンシップ」としてのセックス。

 性欲がなくては成立しないことは同じだが、前者が放っておいても頻繁に行われるのに対して、後者はコンスタントにすることを双方が心がけ、様々な工夫を凝らさないと続きにくい。

 ほとんどの夫婦の新婚時代は、前者の要素しかない。男性の性欲はストレートに発揮され、女性はそれを喜んで受け入れる。多くの女性たちにとって、性的な喜びは征服されることの喜びと同意だからだ。

 結婚してから時が経ち、子どもが生まれたりもして、夫婦生活を通して、相手がどんな人間であるかがわかってくる。伴侶としては悪くない相手だと思っても、異性としての魅力は感じなくなっていく。

 それからは、お互いを嫌っていないこと、夫婦として今後も一緒に生きてゆくという意思の確認を、肌の触れ合いを通じてするようになる。それが、後者としてのセックスである。

愛の渇き


 自分は愛されているという実感を得ていることは、夫婦生活を続けていく上で必要なことだ。人は愛を得て、初めて他人を愛せるのだから。

 親が子どもを愛するのは、打算のない無償の愛だとされる。幼少期に肉親の愛に恵まれなかった人は、しばしば自分の子どもに十分な愛情を注ぐことが出来ないとされる。

 もちろん、そうした幼少期を送った人のすべてがそうなる訳ではない。逆に親や伴侶の愛に恵まれているのに、夫婦生活において心が満たされず、不倫や離婚に至る人もいる。

 一人の女として、一人の男として愛されたい。結婚後もその乾きをずっと抱えている人は、妻または夫とのセックスで、愛情を受けている自分に満足できないことがある。

 心から愛し合った相手と結婚したケースや、独身時代に十分に愛された後で、恋愛とは別物だと割り切って結婚したケースでは、この種の渇きは起きにくいのだが。

2012年6月11日月曜日

セックスと信頼関係


 夫婦にとってのセックスが、子どもを授かる目的で行われるのは、長い夫婦生活の一時期だけである。それ以外は、夫婦間であっても避妊してセックスをすることが多い。

 夫に「所有」されることを好まない妻は確かに多いが、それは尊敬できない夫にそうされることが嫌なだけであって、尊敬できる相手についてゆくことは必ずしも苦痛ではない。

 愛情がなくとも男は女とセックスできるが、女はそうではないと言われる。しかし、性的に興奮しないと結合が出来ない男性と違って、女性は興奮しなくても性器を受け入れることができる。

 もちろん、濡れていないと挿入は難しいし、セックスの最中に擦れて痛みを感じやすい。その場合、唾液やローションなどを潤滑剤として使うことになるが、行為そのものは可能だ。

 セックスに対する男性の側の情熱を考える時、性欲と愛情を区別することは難しい。一方、女性はセックスにおいても演技をする。まるで別のことを考えながら、その時間をやり過ごすことができる。

 子づくりを終えた夫婦にとって、性的快楽を追求するすることが夫婦生活の目的の一つとなるが、精神的な信頼関係づくりと互いの協力なしには、男女の性的役割に沿ったセックスは難しいことがわかる。

2012年3月12日月曜日

二種類のセックス


 例外は無論あるものの、大半の男性は女性を征服することに性的な興奮や満足を感じ、逆に女性の大半は魅力的な男性に屈服することに喜びを感じるものだ。

 好意の持てる相手というのが大前提だが、信頼できるパートナーに荒々しく求められるのは、女性たちにとっても嫌なことではなく、むしろ好ましいことだといえる。

 この支配-服従を基調としたセックスを突き詰めた先にあるのが、レイプとSMだと思われる。この両者の違いは、される側の承認の有無である。すなわち、前者は無理やり、後者は合意のもとに相手を征服する。

 その点は違っているが、人間性を認めていない相手を力によって所有したいという、男性の願望の発露である点は共通している。支配を受け入れるようにソフトに誘導するのが、SMだという捉え方もできる。

 これらに対して、男女が対等な立場でするセックスがある。お互いに人間性や性的嗜好を尊重し合い、求め合う愛のあり方であり、こちらは女性に支持されている。

 同じ性行為であっても、支配-服従型と対等-交歓型は本質的に違うものだ。もちろん、行為の中に両方の要素が入り込むことは多いが、それはあくまでピュアモルトではなく、カクテルなのである。

2012年2月20日月曜日

両目だけでは足りない


 よく知られた「結婚前には両目を大きく開いて見よ。結婚してからは片目を閉じよ」というのは、イギリスの神学者だったトーマス・フラーの言葉。

 これは伴侶に対する評価は、相手を選ぶ段階では減点方式、踏み切ってからは加点方式がいいということだろう。一歩踏み込んで、自分の選択に責任をもって、その選んだ相手の良さを引き出せという意味もあるか。

 とはいえ、性的嗜好の相性・同一性は、夫婦になってみなくてはわからないケースも多い。恋人同士の時には、相手に嫌われたり軽蔑されたりすることを恐れて、なかなか地が出せないものだから。

 社会的にも、セックスに関する話題は避けられる傾向にある。日本においては、家庭の中でセックスに関する話題がオープンに話し合われることは、ほとんどない。

 それは、触れてはならない話題であり、男も女もセクシーな異性や性行為に対して関心が高いことは、恥ずかしいことだという風潮がある。

 相手を見極めるには、両目を大きく開くだけでは不十分で、体全体を使わなくては分からないことが多い。視覚情報からの類推は可能だが、それにはやはり限界がある。

2012年2月11日土曜日

結婚とセックス


 誰と結婚するかという選択は、ごく慎重でなくてはならない。もちろん、相手の必要な問題なので、女性が自分を選んでくれるかも重要だが、選んでくれたから結婚するという姿勢は危険だと思う。

 結婚をするということは、子どもをもうける可能性がある。というか、子どもを得ようとすることが、結婚の目的の一つだといってもいい。子どものいない夫婦は多いし、それはそれでいいと思うが。

 夫婦は子作りのためにだけ、セックスをする訳ではない。喜びを共にわかちあい、絆を深めるためにもする。そして、結婚した後にセックスして問題が生じない相手は、配偶者だけなのだ。

 しかし、夫婦になれば無条件かつ無制限に、妻または夫とセックスできるという訳ではない。一時的な体調の問題だけでなく、嫌悪感や倦怠感によって、セックスレスになってゆく夫婦は多い。

 加齢とともに自然にセックスしなくなってゆくのは、それほど大きな問題を生じないが、若くしてセックスレスになると、不倫や離婚、DVといったトラブルに発展しやすい。

 このブログでは、男女どちらかの見方や、本音と建前の片方だけに偏ることなく、セックスを取り巻く諸問題も含めて、結婚の前後にセックスについて何を考え、どう行動するのが無難かを考えたい。